永射保は、鹿児島県出身の元プロ野球選手です。読み方は「ながい・たもつ」。左投左打の投手で、身長172cm、体重74kgという体格でした。
NPB公式選手記録に掲載されているプロフィールは次のとおりです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 永射保 |
| 読み方 | ながい・たもつ |
| 生年月日 | 1953年10月3日 |
| 出身地 | 鹿児島県 |
| 出身高校 | 指宿商業高校 |
| 投打 | 左投左打 |
| 身長・体重 | 172cm・74kg |
| ドラフト | 1971年・広島3位 |
| プロ入り | 1972年 |
| 現役引退 | 1990年 |
| 死去 | 2017年6月24日(63歳) |
広島東洋カープでプロ生活をスタート
1971年のドラフト会議で広島東洋カープから3位指名を受け、翌1972年に入団しました。
高校時代から速球とカーブを武器にした投手でしたが、プロ入り当初は現在知られているような変則的なフォームではありませんでした。
入団当初はオーバースロー。プロの世界で生き残るため、投球スタイルを大きく変えることになります。
太平洋クラブへの移籍が転機に
1974年、永射は太平洋クラブライオンズへ移籍します。
この移籍後に投球フォームの改造が進み、腕を下げたサイドスローへと変化していきました。
当時のパ・リーグには強力な左打者が多く、左投手の独特な角度を生かす投球は、チームにとって大きな戦力になりました。
永射は単に球速で勝負する投手ではなく、打者の苦手意識を引き出す投手へと変わっていったのです。
【所属球団と経歴】太平洋・クラウンから西武、横浜大洋、ダイエーへ
永射保のプロ野球生活は、1972年から1990年までの19年間に及びます。
所属球団を振り返ると、広島からパ・リーグのライオンズへ移籍し、その後は大洋、ダイエーへと渡っています。
特に西武時代は、左打者対策の専門的な救援投手として評価を高めた時期でした。
永射保の球歴・年代別年表
西武ライオンズ時代に確立した役割
永射の名前が特に知られるようになったのは、西武時代です。
1979年から1984年まで、6年連続で40試合以上に登板。1982年に広岡達朗監督が就任すると、先発投手と救援投手の役割分担が進み、永射は左の強打者を抑える役割を担うようになりました。
相手チームの主軸打者に左打者が並ぶ場面で登板する。こうした起用法によって、永射の専門性はさらに際立ちました。
日本ハムファイターズにも所属していた?
ここは混同されやすいポイントです。
永射保は日本ハムファイターズには所属していません。
NPB公式の年度別成績に記載されている所属球団は、広島、太平洋、クラウン、西武、横浜大洋、福岡ダイエーです。
日本ハムとの関係が語られる理由は、強打者トニー・ソレイタとの対戦にあります。
ソレイタは日本ハムの主力打者で、永射が特に得意としていた相手の一人でした。つまり、日本ハムは所属球団ではなく、強烈な対戦相手との関係で登場する球団なのです。
【左キラーの正体】永射保の投球フォームはなぜ左打者に強かったのか
永射保を語るうえで欠かせないのが、独特の投球フォームです。
一般的な左投手とは異なる低い腕の位置から投げ込むスタイルは、打者にとってタイミングを合わせにくいものでした。
オーバースローからサイドスローへの転向
プロ入り当初の永射はオーバースローでした。
ところが、身長170cm台前半という体格もあり、プロで生き残るために投球フォームを研究。1973年のシーズン終了後から腕を下げ始め、太平洋クラブへの移籍後にはさらに低い位置から投げるようになりました。
フォームの参考にしたのは、阪急ブレーブスの名投手・山田久志です。
山田は右投手でしたが、永射はその投球フォームを鏡に映すようにして研究したと、集英社のスポルティーバによる2017年の追悼記事で紹介されています。
特に重視したのは、腰の使い方、腕の振り、ボールを離すタイミングでした。
また、永射は下半身の強化にも取り組んでいました。中学時代から毎日25~30km走っていたというエピソードも残されています。
左打者の視界を狂わせた投球角度
永射の武器は、単に腕の位置が低いことだけではありません。
左投げのサイドスローから投じるストレートとカーブが、左打者にとって非常に見づらい軌道を描きました。
特にカーブは、打者の背中側から視界に入ってくるような独特の角度を生み出しました。
左打者はボールとの距離感をつかみにくくなり、踏み込んで打つことが難しくなります。
永射は球速だけで圧倒するタイプではなく、打者の腰を引かせ、スイングのタイミングを崩す技術に優れていました。
本人も、打者の腰が一瞬でも引ければ、自分の勝ちだという考え方を語っています。
レロン・リーを苦しめた実績
ロッテの強打者で、通算打率.320を記録した名打者です。永射との対戦では苦戦を強いられました。
週刊ベースボールONLINEが紹介した記録によると、永射とレロン・リーの通算対戦成績は次のとおりです。
永射保 対 レロン・リー
打数
安打
本塁打
打率.153の根拠となる安打数・打数
レロン・リーは永射のサイドスローについて、打てる気がしなかったという趣旨のコメントを残しています。
特に苦手だったのが、背中側から内角へ食い込むカーブでした。
リーほどの実績を持つ打者が、特定の投手に対して極端に苦戦したことは、永射の技術を象徴するエピソードです。
トニー・ソレイタや門田博光にも存在感
日本ハムの強打者で、永射が特に得意としていた相手として知られています。スポルティーバの記事では、永射本人が対戦時の優位性を振り返っています。
さらに、オリックス時代の門田博光との対戦にも印象的な逸話があります。
1989年、ダイエーに所属していた永射と対戦した門田が、自ら監督に交代を申し入れたというエピソードです。
一流打者が投手との相性を考えて交代を求めるほど、永射の存在は警戒されていました。
ピンク・レディーの「サウスポー」との関係
1978年に大ヒットした楽曲で、永射の投球フォームとの関係が知られています。
永射は、ピンク・レディーの楽曲『サウスポー』に登場する左投手のモデルになった人物としても紹介されています。
本人はスポルティーバの取材で、ピンク・レディーの2人と舞台に並んで曲を歌った経験を語っています。
また、漫画家の水島新司が描いた『野球狂の詩』の女性投手・水原勇気のフォームにも、永射の投球スタイルが参考にされたとされています。
野球界だけでなく、歌謡界や漫画界にも影響を与えた点は、永射保という投手の個性を示す興味深い事実です。
【通算成績を検証】606試合登板が示す永射保の実力
永射の記録を確認すると、単なるワンポイント専門の投手という説明では足りないことが分かります。
NPB公式記録に掲載された通算成績は以下のとおりです。
NPB公式・通算投手成績
1977年は199回2/3を投げた
特に注目したいのが、クラウンライター時代の1977年です。
この年の成績は次のとおりです。
- 登板:49試合
- 勝利:9勝
- 敗戦:10敗
- セーブ:6
- 投球回:199回2/3
- 防御率:3.33
199回2/3という投球回数は、現在のイメージにある短いイニング限定のワンポイント投手とは大きく異なります。
当時は先発、中継ぎ、抑えなどを状況に応じて担っており、永射自身も複数の役割を経験していました。
1983年には防御率2.41を記録
1983年の防御率は2.41でした。
19年間の通算防御率は4.11ですが、これは先発や長いイニングを投げていた時期も含む数字です。
永射の評価を考える際には、通算防御率だけでなく、左打者を相手にした場面でどのような役割を担っていたかを見る必要があります。
週刊ベースボールONLINEの対戦記録やスポルティーバの取材記事からも、特定の強打者に対する強さが永射の評価を形作っていたことが分かります。
なぜ勝利数以上に評価されたのか
永射の価値は、勝利数やセーブ数だけでは測れません。
例えば、終盤の重要な場面で相手の左打者を1人抑えれば、後続の投手が有利な状況で登板できます。
これはチーム全体の失点を防ぐうえで大きな意味を持ちます。
現代の野球では、投手の役割が細分化され、左打者に強いリリーフ投手の重要性もデータで評価されています。
永射は、そうした専門性を持つ救援投手の先駆けとして記憶されている選手です。
【引退後と現在】野球指導や飲食店経営、そして2017年の死去
永射保は1990年、福岡ダイエーホークスで現役を引退しました。
当時37歳。19年間のプロ生活に区切りをつけた後も、野球との関わりは続きました。
引退後は野球指導者として活動
報道によると、引退後は中国のプロ野球に関係する指導や少年野球の指導に携わりました。
また、硬式野球クラブ「小郡シニア」の監督を務めたことも知られています。
少年野球の育成にも力を注ぎ、西武でプレーした永江恭平らの指導に関わったとデイリースポーツが報じています。
福岡県内で飲食店を経営
野球界から離れた後は、福岡県内で飲食店を経営していました。
スポルティーバの追悼記事では、北九州で居酒屋「野球狂の詩」とスナック「サウスポー」を営んでいたことが紹介されています。
店名にも、永射が歩んできた野球人生が表れていました。
プロ野球の現場で強打者と対峙していた投手が、引退後は地域の人々と交流する仕事に携わっていたのです。
永射保の死去は2017年6月24日
永射保は2017年6月24日午前、福岡県久留米市内の病院で亡くなりました。63歳でした。
死因については、日刊スポーツなどががんと報じています。集英社のスポルティーバは、肝臓がんのため亡くなったと記載しています。
亡くなる前は体調を崩し、入院生活を送っていたことも報じられました。
通夜は6月25日、告別式は6月26日に福岡県久留米市内で営まれました。
2026年現在、永射保はどう評価されている?
2026年現在、永射はすでに故人ですが、プロ野球史における左打者専門の救援投手を語る際に欠かせない人物です。
その評価を支えているのは、通算606試合という登板数だけではありません。
- 左打者の苦手意識を利用した投球技術
- 独自に作り上げた低い投球フォーム
- 強打者との対戦で残した印象的な実績
- 西武の重要な時期を支えた救援投手としての働き
- 野球指導を通じて次世代に技術を伝えた活動
これらが重なり、永射保という投手の存在を現在まで伝えています。
【プロの結論】永射保がプロ野球に残した本当の功績
永射保のキャリアを振り返ると、最も重要なのは、自分の個性を弱点ではなく武器に変えた点です。
身長や球速だけで勝負するのではなく、腕の位置を変え、下半身を鍛え、打者の視界や心理を利用する投球を磨きました。
永射保から読み取れる3つの専門的な価値
1. 投手の評価は数字だけでは決まらない
通算44勝という数字だけでは、永射の価値は十分に伝わりません。
強打者が並ぶ場面で登板し、必要なアウトを取る。その役割を19年間にわたって果たしたことが評価の核心です。
2. 特殊な投球フォームには長期的な鍛錬が必要
永射は腕を下げるだけでなく、下半身の強化やフォームの安定性を追求していました。
他の投手が表面的にフォームをまねても、同じ成果を得るのは簡単ではありません。永射自身も、走り込みと下半身の強さが必要だと語っています。
3. チームに必要な役割を理解することが選手寿命につながる
永射は、先発投手としての実績だけにこだわらず、救援やワンポイントという専門的な役割で価値を発揮しました。
チームが必要とする仕事を理解し、その分野で他の投手にはない強みを作ったことが、長く現役を続けられた理由の一つです。
【永射保に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:永射保は何と読みますか?
A1:ながい・たもつと読みます。1953年10月3日生まれで、鹿児島県出身の元プロ野球投手です。
Q2:永射保の通算成績は?
A2:NPB公式記録では606試合登板、44勝37敗21セーブ、防御率4.11です。
Q3:永射保が左キラーと呼ばれた理由は?
A3:低い腕の位置から投げる独特のサイドスローと、打者の背中側から入ってくるようなカーブが左打者を苦しめたためです。レロン・リーやトニー・ソレイタなどの強打者との対戦でも知られています。
Q4:永射保は日本ハムファイターズに所属していましたか?
A4:所属していません。広島、太平洋クラブ、クラウンライター、西武、横浜大洋、福岡ダイエーでプレーしました。日本ハムとの関係は、主力打者トニー・ソレイタとの対戦などにあります。
Q5:永射保はいつ引退しましたか?
A5:1990年です。最後の所属球団は福岡ダイエーホークスでした。
Q6:永射保の死因は何ですか?
A6:2017年6月24日、63歳で亡くなりました。がんのためと報じられており、スポルティーバの記事では肝臓がんとされています。
Q7:永射保はピンク・レディーの『サウスポー』と関係がありますか?
A7:はい。楽曲に登場する左投手のモデルになった人物として知られています。本人もピンク・レディーの2人と舞台で歌った経験を語っています。
まとめ:永射保は唯一無二の左キラーだった
永射保は、広島でプロ生活を始め、太平洋クラブ、クラウンライター、西武、横浜大洋、福岡ダイエーで活躍した左腕投手です。
独特のサイドスローとカーブを武器に、左打者を抑える専門的な救援投手として名を残しました。
通算606試合登板、44勝37敗21セーブという記録に加え、レロン・リーや門田博光ら強打者との対戦は、現在も語り継がれるエピソードです。
1990年の引退後は野球指導や飲食店経営に携わり、2017年6月24日に63歳で亡くなりました。
永射保の本当の功績は、単に変則フォームで活躍したことではありません。自分にしかできない投球スタイルを作り上げ、チームが最も必要とする場面で結果を出し続けたことです。
「左キラー」という呼び名は、永射保がプロ野球に残した専門性と誇りを象徴する言葉なのです。
主な参考資料:日本野球機構(NPB)個人年度別成績、日刊スポーツの2017年6月訃報記事、デイリースポーツの追悼報道、集英社「web Sportiva」2017年7月の追悼記事、週刊ベースボールONLINEの対戦記録・選手紹介。 (出典: 永 射 保(Yahoo!ニュース))