2026年現在も日本のエンターテインメント史において語り草となっている時代劇俳優・近衛十四郎。その類まれな殺陣の技術と圧倒的な存在感は、「日本映画史上最も殺陣の上手い役者」「古今東西ナンバー1」と称され、今なお多くの映画ファンや時代劇愛好家を魅了し続けています。戦前から戦後にかけての激動の時代を駆け抜け、松竹や東映などのメジャー映画会社で数々の名作を残した彼の足跡は、日本の映画史において決して色褪せることのない大きな金字塔です。
本記事では、公式百科事典や信頼できる報道・関係者の証言などのグラウンディングデータを基に、近衛十四郎の生い立ちから映画界での栄光、愛用の長刀の秘密、そして晩年の歩みまでを徹底的に紐解きます。長男・松方弘樹をはじめとする家族との絆や、日本映画界の変遷と共に歩んだその劇的な人生の全貌に迫ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:戦前から戦後にかけて活躍し、「日本映画史上最も殺陣が上手い」と称された伝説の時代劇俳優・近衛十四郎の生涯と功績を解説。
- 要点2:松竹や東映での看板スターとしての活躍に加え、速い剣捌きを生み出した愛用の「長刀(ロングソード)」の秘密を徹底解剖。
- 要点3:妻・やゑとの深い絆や、晩年の釣り堀経営、長男・松方弘樹との知られざるエピソードまで、知られざる素顔に迫る。
新潟での生い立ちから戦中・戦後の苦難の時代まで
近衛十四郎の本名は目黒寅彦(出生名は寅一、のち改名)。1914年(大正3年)4月10日、新潟県長岡市西新町で父・目黒多七、母・ミカの長男として誕生しました。姉と妹に挟まれた長男でしたが、実の長男が早世していたため、実質的な次男として育てられています。13歳で父を亡くすという辛い幼少期を経験しながらも、母の手によって大切に育てられました。
俳優としてのキャリアを歩み始めた近衛は、1941年に女優の水川八重子(本名:角西やゑ)と結婚し、人生の伴侶を得ます。しかし、時代は太平洋戦争の戦中・戦後という激動期でした。1942年には戦時映画社統合により大都映画社が日活、新興キネマとともに合併され大日本映画製作株式会社(大映)となります。当時の大映には剣戟四大スター(阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門)がすでに君臨しており、若手であった近衛の出番は限られていました。さらに、フィルム統制により映画製作本数が激減し、多くの俳優が深刻な仕事難に直面することになります。
こうした逆境の中、近衛は妻・やゑと共に大都映画の退職金2人分を投じて一座を結成し、日本国内各地を実演興行して回るという決断を下します。座員には大都映画から引き連れた俳優に加え、浅草の軽演劇から名うての役者を数名登用し、時には総勢50名近い大所帯となるほどの規模に発展しました。同年7月23日には、のちに名優として一世を風靡する長男・浩樹(のちの松方弘樹)が誕生しています。
松竹から東映への移籍、そして黄金期の到来
戦後、新東宝から映画界へカムバックを果たした近衛は、『江戸群盗伝』や『修羅桜』などに主演して頭角を現します。1953年には新東宝系列の芸能事務所「綜芸プロ」に所属したものの、当時は端役同様の扱いからの出直しを余儀なくされていました。そんな苦難の時期に転機が訪れます。松竹において、大映との契約が切れ松竹時代劇を長年支えていた大スター・阪東妻三郎が急逝したのです。時代劇のチーフ監督であった大曾根辰夫は近衛の素質を高く評価しており、彼を熱心にスカウトしました。
1954年、近衛は正式に松竹に移籍します。悪役の筆頭や主役と同等の立ち役を務め、阪妻亡き後の松竹時代劇の屋台骨を高田浩吉と共にしっかりと支える存在となりました。1957年の『まだら頭巾剣を抜けば 乱れ白菊』で本格的な主演を務め、いよいよトップスターとして大々的に売り出そうという矢先の1959年、松竹は突如として時代劇映画制作からの撤退を発表するという試練に見舞われます。
一方その頃、邦画業界で観客動員数No.1を誇っていた東映は、社長の大川博が「日本映画の収入の半分は東映がいただく」と豪語するほどの勢いを見せていました。しかし、テレビの急速な普及に伴い映画館の動員数は全体的に減少傾向にありました。1959年、東映は1社による「2系統2本立て配給」を目指し、前年に社内で発足していた「東映テレビ映画」を「第二東映」と改称して発足させます。深刻な役者不足を補うため、近衛は松竹の高田浩吉や東宝の鶴田浩二らと共に東映へと引き抜かれ、1960年に移籍を果たしました。
近衛十四郎の主要キャリアと歩み
| 時期・年代 | 主な出来事・所属 | 代表作・背景 |
|---|---|---|
| 1914年 | 新潟県長岡市で誕生 | 本名:目黒寅彦。幼少期に父を亡くす。 |
| 1941年〜1942年 | 女優・水川八重子と結婚、一座結成 | 大都映画の統合・退職金をもとに全国巡業。長男・浩樹(松方弘樹)誕生。 |
| 1954年 | 松竹へ正式移籍 | 阪東妻三郎の急逝後、高田浩吉と共に松竹時代劇の屋台骨を支える。 |
| 1960年 | 東映(第二東映)へ移籍 | 看板スターとして活躍。『柳生武芸帳』シリーズなどで圧倒的な存在感を発揮。 |
| 1976年〜1977年 | 事実上の引退状態へ | 妻・やゑの逝去、自身の闘病を経て、1977年5月20日に逝去。 |
日本一と称された殺陣の技術と、愛用の「長刀」の秘密
近衛十四郎の最大の代名詞といえば、何といってもその圧倒的な殺陣の技術です。映画ファンや専門家から「日本映画史上最も殺陣の上手い役者」と称賛され、剣戟スターとして唯一無二のポジションを築きました。型にはまった器用な立ち回りというよりも、画面映えする異様なまでの迫力と、猛烈なスピードを誇る剣捌きが最大の特徴でした。
この驚異的な殺陣を具現化するため、近衛は独自の工夫を凝らしていました。それが、通常よりも刀身の長い刀(長刀)の愛用です。画面映えの良さと、刀を激しく振り回した際のダイナミックな迫力を最大限に引き出すため、強靭な手首の強さを誇る近衛自身が発案し、独自に開発した特製の刀でした。この長刀を自在に操り、敵を圧倒する殺陣のシーンは、当時の観客に強烈な衝撃を与えました。
1961年から1963年にかけて公開された大ヒット映画『柳生武芸帳』シリーズでは、主役の柳生十兵衛を演じ、その名声を不動のものとしました。ヒーロー然とした爽やかさだけでなく、どこかニヒルで影のある浪人役など、阪東妻三郎を彷彿とさせる泥臭くも圧倒的な重みのある演技は、テレビシリーズ終了後も長く語り継がれる伝説となっています。
晩年の歩みと妻・やゑとの深い絆、そして伝説の幕引き
テレビのレギュラーシリーズ終了後も単発のゲスト出演などをこなしていた近衛でしたが、次第に体力の低下が著しくなり、1976年には事実上の引退状態となりました。晩年は各種会社の経営者として第2の人生を歩んでおり、トルコ風呂(ソープランド)やモーテル経営に加え、長年の趣味であった釣りを活かして釣り堀の経営も手掛けました。ロケ先には必ず釣り竿を持参するほどの無類の釣り好きとして知られ、酒豪としても息子である松方弘樹・目黒祐樹の兄弟に劣らぬ豪快なエピソードを残しています。
しかし、近衛が事実上の引退状態へと向かった背景には、健康上の問題と大きな精神的喪失がありました。当時、近衛は糖尿病に加え、肝硬変や高血圧を抱えており、医師からは「あなたの心臓は100までも生きられる心臓やけど、今度倒れたら生命に関わる」と厳しく飲酒を戒められていました。そんな彼の最大の精神的支えであったのが、妻のやゑ(水川八重子)でした。
報道各社・関係者の証言によると、1976年7月25日に妻のやゑが胃がんのため死去したことが、近衛に決定的な打撃を与えました。最愛の伴侶を失い、生きる張り合いを失った近衛は、それまで医師の指導のもとで節制していた酒を再び浴びるように飲むようになり、連日のように釣り三昧の日々を送るようになりました。釣りの最中も傍らには常に酒瓶が転がっていたといいます。
京都府亀岡市の5千平方メートルの山林に、長男・松方弘樹と2000万円を共同出資して造った釣り堀「天国」は、父と息子が心を通わせる場所でもありました。1977年5月20日、その釣り堀「天国」で松方とヘラブナ釣りを楽しんでいた最中、近衛は脳内出血で突如として倒れました。近所の南丹病院に搬送され、一時意識を取り戻したものの左半身は麻痺し、収縮期血圧は260を記録するなど、脆くなった血管は次々と破裂していく過酷な状態でした。懸命の治療も及ばず、同年5月22日夜から昏睡状態となり、日本映画史にその名を刻んだ伝説の剣戟スターは、静かに息を引き取りました。享年63。
【近衛十四郎】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:近衛十四郎の殺陣が「日本一」と称される理由はなんですか?
A1:卓越した剣捌きと圧倒的なスピード感に加え、画面映えを追求して自身で発案・開発した特製の「長刀」を自在に操り、他の追随を許さない異様な迫力とリアリティのある立ち回りを魅せたためです。
Q2:息子である松方弘樹や目黒祐樹との関係はどのようなものであったのですか?
A2:長男の松方弘樹は東映で同時期に俳優デビューを果たし、晩年も京都の釣り堀を共同出資して造るなど、公私にわたって深い絆で結ばれた良き父子であり、芸能界を代表する名優血統を築きました。
Q3:近衛十四郎の代表作や出演した主要なシリーズは何ですか?
A3:『柳生武芸帳』シリーズ(1961年〜1963年)の柳生十兵衛役をはじめ、新東宝や松竹、東映での数々の時代劇映画でニヒルな浪人役や重厚な役柄を演じ、日本映画の黄金期を支えました。
まとめ:伝説の剣戟スターが残した永遠の足跡
戦前から戦後にかけての激動の映画界を駆け抜け、「日本映画史上最も殺陣が上手い俳優」として映画史にその名を刻んだ近衛十四郎。貧しい幼少期や戦時中の苦難を乗り越え、妻・やゑとの固い絆に支えられながら築き上げたキャリアは、日本の一時代を築いた時代劇文化そのものと言っても過言ではありません。
独自の工夫で生み出された長刀による圧倒的な殺陣、そして息子たちへ受け継がれた表現者としての魂は、2026年現在も色褪せることなく、多くの時代劇ファンの心の中で生き続けています。彼の残した数々の名作や伝説的な立ち回りは、日本の映画史を語る上で永久に語り継がれるべき貴重な財産です。 (出典: 近衛 十 四 郎(Yahoo!ニュース))